『村田珠光(むらたしゅこう)』
茶をめでる事は、日本に限らず中国でも盛んで、中国では茶に関する最古の書「茶経」(ちゃきょう)などで茶の徳を述べている。
日本では、珠光によって大きく広められた。珠光は奈良出身で、南都の称名寺(しゅうめいじ)にて学び、18歳の頃まで南都に住んでいた。
その後、京都に移り、足利義政に仕えたおり、芸能に優れた人、同朋(どうぼう)となる。同じ頃、3人の同朋衆である能阿弥、相阿弥、芸阿弥がいた。
彼らのことは画などに残っている。なかでも能阿弥は、立花(たてはな)-生け花-をよくやっていた。
珠光は初め、能阿弥に立花を習っていたが、風流や趣向をこらす事においては、珠光が師である能阿弥をまさり、能阿弥のほうが珠光を師として上座に座らせるようになる。
また珠光は、大徳寺の一休和尚のもとで修行をし、教外別伝(きょうげべつでん)-言葉や文字でなく心から心へ伝えること-を悟る。その秀でた才能があることを知られていた。
その時代は、茶棚である台子(だいす)の作法はあったが、茶の湯の決まり事は無かった。珠光はある時、後世も暇な人が楽しめるように、茶の湯の作法を定める事を思いつく。
中国の「茶経」を書いた陸羽(りくう)と同じ風を起こすように、珠光の茶の湯は、心を清浄にしたり、身をおさめたり、家をととのえたり、国を治めるたりするためにも用いられた。このように茶の湯が世に広まり、人々が習い伝え、その流れをくむものは、珠光を開祖とした。
その後、数十年を経て戦国の乱世となり、その伝承は失われた。
『武野紹鴎(たけのじょうおう)』
ある時、大阪、泉州堺の武野紹鴎(たけのじょうおう)が珠光の心をつぎ、茶の湯の道を再興する。そして茶の湯が再び盛んになる。
『千利休(せんのりきゅう)』
その後は、千利休の名で知られる宗易(そうえき)が武野紹鴎の風が絶えないように、奥義を発明すると、門弟が増えて益々盛んになった。
『千道安(せんのどうあん)』
利休の嫡子である道安は、父の道を継いで家名を落とさなかった。
『桑山宗仙(くわやまそうせん)』
道安に学んだ桑山宗仙の名で知られる左近(さこん)は、この道の系統を作った。
『片桐石州(かたぎりせきしゅう)』
1605年、片桐石州は、初代小泉藩主の長男として生まれる。賤ヶ岳七本槍の片桐且元の甥にあたる。
桑山宗仙に茶の湯の奥義を習う。
27歳から38歳まで普請奉行(ふしんぶぎょう)として京都の知恩院を再建する。
茶室をつくり、小堀遠州などの茶人を茶会に招く交流をしている。
先人からの教え以外の独自の考えを含めて、諸国の大名達に広め、茶道石州流の開祖となった。
宗関公は、初めて茶の湯を学ぶ人のために、この三百ヶ条にまとめた。
(四代将軍 家綱に献上した三十九葉の懐紙に書かれた三百ヶ条が茶湯覚書の元本とされるが、本人が書いたもは見つかっておらず、弟子による解釈が含まれる複数の三百ヶ条がある)
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